2011.8.20

アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.15

アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.15

心臓病に加えて糖尿病、と、不治の病を二つ抱えています。心臓の方は「心筋症」といって、これは、生きている限り病院と縁は切れないが、薬でまあコントロールできています。しかし、「やれるうちにレイアウト製作に集中しないといかん」と決断させてくれたのが、10年前のこの病気の発症でした。原因はよくわからず、そういうのは「特発性」という名称で片付けられます。ようするにカスタム・メイドですね。

5年来の糖尿病は一般的な「II型」(食べ過ぎ型?)ではなく「I型」つまり、膵臓の機能がほぼ完全につぶれてしまっているので、毎食の都度、注射でインスリンを補ってやらなければなりません。先天的な場合が多いそうですが、私の場合はどうも何かのストレスで膵臓機能が一気に減衰したのではないか、ということのようです。

注射といっても大したものではなく、長く走らせていなかった模型に、運転の前にちょっと注油する程度なのですが、なかなか一定するのが難しい食事に、それだけでは血糖値が安定しないので、週2,3回、通勤と別に夕食後、1周17kmほど、約80分の自転車散歩に行きます。これで余ったカロリー分を燃焼してしまうのですが、通勤と合わせると週にほぼ60km、ひと月に240km,年間で9ヶ月として2,000km超の計算になりますから、馬鹿にはなりません。自分の脚力で、この5年、すでに10,000kmは走ったことになります。

自宅近くの環状7号線を南下して、西武新宿線、JR中央線を超え、堀の内、和田掘り公園を抜けて京王井の頭線を見るあたりで戻ってきます。

武蔵野台地は、このあたりでは存外凹凸が多く、このルートが比較的急坂に出会わないで済むことを実地踏査で発見しました。12月、1月、2月はさすがに休みますが、そろそろ再開しようとしていた矢先にこの地震でした。

来週からは再開しなければと思っているところですが、ただこれを始めると工作の時間はその分、食われます。仕方ないので、走りながら段取りをよく練って、戻ると同時にすぐ工具を握るよう心がけています。(人生後半にはこういうことも起こるので、「いつか時間が出来たら、ゆっくりやろう」なんて油断していると、きっと後悔します)

さて環状7号線(の歩道)を夜な夜な走って感じるのは、昔は週末に爆音を轟かせていた暴走族なるものをほとんど見かけなくなったことです。

騒音や交通安全の見地から、あるいは若者の教育上からも結構ではありますが、若者が総体利口なる半面、発散するほどの覇気も無くなってしまったのは、それはそれで、ちょっと不気味ですね。教育的に理想の社会というのは、じっくり考えると不気味です。

そもそもテレビのホーム・ドラマなるものが、いま考えると不気味でしたね。「物分りのいい、品行方正な父親と聡明活発な母親の下に、絵に描いたように仲のよい兄弟姉妹の子供たちと噛み付かない犬が居て、近所の踏切を通るのは決まって小田急線か東急、それに京王線。いつもすべてが道徳的でハッピーエンド」という相場が決まっていました。(西武は漫画、東武は日活ロマンポルノの常連です)

いまNゲージのレイアウトの多くを見ると、あの「お行儀の良い」ホーム・ドラマの舞台を再現しようとしているのではないか?すくなくもNゲージ・メーカーのストラクチャー製品はそう指向しているのではないか?と思われて、「モデラーが創ろうとする景色」まで、そのように「お行儀良く」標準化されているのが、これまた、私には不気味で仕方がありません。

日本のレイアウトのイメージ貧困は1.交通博物館、交通科学館のレイアウト、2.小学校の童謡、3.TVのホーム・ドラマ、が主として作り出したのではないか?と思います。

それで、雑誌や展示会に出てくるレイアウトも「健康優良児で学級委員」みたいなもののオンパレードになってしまいました。ですから「詩」がないのです。似合うバック・ミュージックは「ラジオ体操」?

実際に電鉄の創ったニュー・タウンなるものに降り立ってみると、実に清潔で美しく、明るく、行儀良く、しかし「歴史、過去、と断絶した世界」です。あの「健康優良児で学級委員」的自信にあふれた街ぶりには、私は押しつぶされそうになります。

ジョン・アレンの「G&D鉄道」に米国だけでなく、日本のモデラーを含む世界の多くの人びとが魅了されるのは、あの写真に漂う「哀感」ではないでしょうか?それは、幼くして両親を亡くした彼の境遇と無縁ではないだろう、と私は見ていますが、風景に漂う哀感があるからこそ、彼のレイアウトは「詩」そのものなのではないでしょうか?

それはジョン・フォードの西部劇映画にも共通しています。「駅馬車」「荒野の決闘」「黄色いリボン」「リオ・グランデの砦」‥すべての登場人物が「そこに流れてこざるを得なかった、やむにやまれぬ事情」を抱えている、という「哀感」が、劇を、単なる殺し合いの話ではなく、「詩」に仕立て、何度見ても飽きない深さを感じされるのです。

私が自分のレイアウトの一角に「猥雑と隠微」の象徴としての売春街、「ビッグゲイト・アヴェニュー」(江戸吉原の「大門通り」にちなんだ)を造ろうと考えたのは、いまにして思えば、小田急や東急のニュー・タウンに対するアンチ・テーゼだったのかもしれません。

まず人形集めから入ってストラクチャーを選ぶ段になって、突然出てきたのが「ダウンタウン・デコ」社の、デンヴァーの街の場末で実見したイメージそのもの、いかにも、という酒場、商店群でした。

それを組んでいる最中にウッドランド社から出てきた人形に「オートバイで走り回る若者」がありました。これで「不良っぽいガキ共も居る街」を表現する事が可能になったのです。落語の「廓ばなし」にちょっと、「ウエストサイド物語」も被りました。

これですから、レイアウトにおける人形の役割、というものは実に偉大だと思うのです。人形ワンセットだけで街の性格がずばり表現できます。ですからレイアウトにおいて「適当に人形を‥」という思考には、私は到底なれません。

それにしても、この『大門通り』プロジェクトの流れ全体は、まるで欧米のメーカーがこぞって、私のために製品を発売して行ってくれているようで、大変に愉快な偶然でした。

さて、そこで、もう2週間もやっている「大門通り」の照明工事ですが、建物に次々に明かりを点し、看板も照明していきましたら‥ふと気が付いたのです。夜の街に爆音轟かして走るオートバイのヘッドライトが点燈していないのは、おかしいじゃないか!

「また、そうやって、自分で仕事を増やす!」とは思いましたが、気になり始めると仕方が無い。

一旦、交差点の路面に接着してあったオートバイ3台を剥がし、ヘッドライトにモーターツールの極小カッターとピンバイスで0.5φ穴を貫通させ、人形の股とエンジンの陰を縫って光学繊維を通し、地下に引き込んだところで、3台分と、田舎から街に入ってきた、という風情のステーション・ワゴン1台の計5本を束ねて熱収縮チューブの中でチップLEDと向かい合わせました。

一度こういうことをやってしまうと、これから街も拡がり、自動車も増えるのに、どうするのでしょう?今週は、「やったね!」という感慨と、溜息の交錯する交差点風景です。