アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.30
小寺康正氏の国鉄タンク機関車写真集上巻は250ページの大部ですが、その校正が何度も戻ってきて、LB4の進行がすっかり遅れてしまいました。全部で4回、全編通しで読んだ、ということは延べ1000ページですから、自分で書いた解説とはいえ、もう、うんざり、です。
そもそも自分で原稿を書きながら読んで、一度確かめているのですから、それを計算にいれれば1250ページ分、読み返したことになります。
写真集というからには、主たる商品内容は写真ですが、ならば写真さえベタベタ並べれば商品になるか、というと、やはり大なり小なりの説明、解説が付くことで付加価値が決まります。著者の方は、「写真を並べるだけで、どうしてそんなに制作期間がかかるのか」と、これで大概、一,二度は揉めます。だから、そういう心配の無い故人の作品集は、こちらのペースで落ち着いてやれますので、ありがたいです。その代わり、「ここは判らないので作者にちょっと訊く」というわけにはいかないのが難点ですが‥
今回も著者からは、「お宅であんまり時間が掛かるのなら、他にも2,3、やらしてほしいといってきている出版社があるので、そちらを考えたい」と再三言われましたが、そんな、資料もろくに持っていないところに任せて国鉄蒸機のちゃんとした細部解説が出来るはずも無く、どうせ小寺さんが満足できるようなものはできっこない、と思いましたから、途中で放り出さずに仕上げました。
私は、決して国鉄蒸機の専門研究者ではありません、あくまでもアメリカ型のファンですが、さりとて、いま、私以上に国鉄蒸機の細部分類をきちっとできる鉄道書の編集者がいないのも、また事実です。そのくらい、特に実物ファン上がりの編集者は写真を見る目が粗雑です。到底、模型の参考になるような解説はつけられません。
それにしても、雑誌と違い、大型の単行本をまとめるには「気合」「精神力」が必要ですが、やはり60歳を超えると、しんどいですね。
25歳の時に、形式シリーズ「C52/C53」という本を2年越しでまとめて、西尾克三郎氏に「君自身が見ていない時代をよくここまでまとめたもんや」と悦んでいただきましたが、「君は自分がまだ若いから、この先、これぐらいの本はいつでもやれると思うやろが、たぶん、これ以上のものはやれんやろ。若い、というのは、それぐらいエネルギーを集中できる。君がずっと歳いったとき、この本を見て、自分でもようやったもんや、と、きっと、思うで」といわれました。まさに的中していましたね。
そのくらい、大型写真集をまとめるというのは気力と集中力が要ります。
「気力と集中力」という点では、因果な事に、続いて「LB4」で取り掛かっているレイアウト写真の撮影が、これまた、実は気力の充実と集中を要する作業です。屋内で、しかも取り直し自由ですから、実物写真を撮るより楽そうに思われるかも知れませんが、実は反対で、レイアウトの撮影に比べたら、たとえ吹雪の中でも、実物の列車撮影の方がはるかに、「公園の散歩」です。
日本で、列車写真の腕、といったら、いまでさえ、西尾克三郎、臼井茂信のお二人が他と隔絶した巨峰と思います。私はお二人の遺されたネガの現物を何度も隅々まで点検していますが、二人とも、「無駄ゴマ」というものが、全くといってよいほど、ありません。失敗もしていない。ネガの途中を切って捨てた形跡がないから、それは確かです。どうやったら、あそこまでシャッター毎にアングルといい、フレーミングといい、シャッターチャンスの見切りといい、入魂の限りを尽くして撮れるものか?大げさでなく、剣豪のような技です。
そこへいくと、ここ30年ほど、プロを自称する絵はがき写真屋はじめ、列車写真というと、皆判で押したように、三脚にカメラを載せて、あらかじめ決めておいたピントの辺りで、モータードラオヴでジャカジャカジャカ‥それが「本格的」「王道」のように思っているが、あれじゃ、ベストの一瞬を見切れるはずがありません。何のことはない、自分の、シャッター・チャンスを見切る目に自信がないから、あんなカメラ任せの撮り方をするんです。
実は、西尾さんも臼井さんも、列車の撮影にはカメラはすべて手持ちでした。だから、自在、臨機応変のフレーミングができたのです。(私も実物の列車撮影は手持ち主義です。「置きピン」などせずに、ヘッドライトのレンズの反射が常にピリッと見えるようにフォーカス・リングを操作することで、ピントを追っていきます-あそこが一番、ピントが合っているか、ボケているか、確認しやすいのです)
それでは、レイアウト写真の撮影は何故難しいか?それは、アングルの自由度、光線とレンズの選定などの組み合わせがほとんど無限で、「これがこの場合のベスト」という判断がつけにくいからです。更には「相手が小さい」つまり、カメラの位置が、縦横上下1cm変わっただけでも、物と物との重なり具合など、画がガラッと変わってしまいます。
つまり、「いくらでも撮り直し可能」であると同時に、「完全に同じ画角のものは二度と撮れない」といって過言でないぐらい、カメラ・ポジションを一度崩したら元へ戻せないのです。ピントの合わせどころもフォーカス・リングで+-1度の中を迷う、というのが普通です。「前のアングルで、光線は今度の方が良かった」と想っても、簡単にはそこへ辿りつけません。
レイアウトの狭い所で、身体をひねりながら、そのベスト・アングルを探していくのは相当に神経を集中しないと出来ません。それを、撮り込む日には半日で何十枚も繰り返します。ですから、体調がよほど良く、気持ちに余裕がある日でないと、1日で何ページ分かを撮るのは無理。また無理やり撮ったのは、何十カット撮っても、全然ダメで、自分で、気の入っていないのがよく判ります。たとえば、レイアウト写真で奥行きを演出してくれるのは「影と蔭」なのですが、シャドウが上手く使えていない、とか‥写しているものが総花過ぎて、画がかえって平板になってしまっている、とか‥
これが、体調良く、思考に余裕のある日には、いい光線も、いいアングルも、いいシャドウも、スッと見つかるのですから、毎日のように眺めているレイアウトであってさえ、面白いものです。
今日の写真は、場末の「大門通り」の路地越しにリンデンウッド機関庫を遠望した夕暮れの風景で、昨年から、何度か挑戦して、この金曜日にやっと考え通りのものが撮れた、というショットです。
米国の夏から初秋は大体日本より陽が長く、茜色が差してから完全に暗くなるまでの間に、こうした「にび色」とでもいうのでしょうか、鈍い斜光線が景色を柔かく包むひとときがあります。周りを山で囲まれたデュランゴ辺りで見る、そうした残照の光景を造出してみました。
まさに「造って撮る」ですが、背景まで入れると、この1枚を写せるまでには、相当の工数は掛かっていますね。とても「商売」でできる仕事じゃありません。やっぱり、執念、妄念の世界なのでしょうか、レイアウトは?
ジョン・アレンの生涯記を読んでいても、そういう想いがします。