2012.7.4

アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.37

この3日間、世間は連休ですが、私は家に立て籠もって『LB4』の原稿書きです。「この連休の間に文字原稿を大半書いていただかないと、8月に発売できませんよ!」と、相棒の小畠女史から厳命されております。(同じB型なのに、容赦ありません)

小寺氏の写真集の校正に時間がかかりすぎたうえに、予定していた記事のうち、製作も撮影も一番先行していた「大門通り」が、今回ページの都合で次回送りとなり、反対に一番遅れていた「米山鉄道」は「日本型だから是非入れろ」というエリエイの営業さん(うちの長男)の指示で間に合わせなければならず、「水」をテーマにした2編の記事も「夏だから是非入れろ」と、注文がついて、それを一人で全部撮影し、文章も書く方は大変です。

いまでこそ文章書きが仕事ですが、実は小学校当時、一番苦手だったのは「音楽」と「作文」でした。「作文」ぐらい、忌々しいものはないと思っていました。

いまでも、頭に浮かぶ(というより、勝手に涌いてくる)言葉がリズムに乗ってしまえば楽しいのですが、それが滑らかに浮かんでこない時に時間に追われて無理やり書かねばならない時は苦痛です。なまじ時計を見たりすると、もっとダメ。

頭の中にリズム感を戻すために落語のテープをかけてみたり、気分転換としてコーヒーを飲んでみたり、パイプをふかしてみたり、何か食べてみたりするのですが、そういうのも大概効果ありません。一番効果的なのは、ブランクを作らず、絶え間なく書いていることです。

それで、皆様に週1回発信するこのおしゃべりが多いに役立っています。月刊誌を去ったあと、たまに文章を書こうとするとリズム感がなかなか取り戻せない自分に気付いて愕然としました。スポーツ選手がどんな有名でも、現役を去ったのちはうそのように身体が動かなくなってしまうのが納得できましたね。言語というのも「韻律を選んで使う訓練」を止めてしまうと、本当に涌かなくなってきます。

でも、これは写真撮影でも、レイアウト製作でも同じですね。レイアウトも、気分の乗っている時は「僅か2時間でこんなに出来るのか!」と自分でも驚くほど、手と眼が勝手に動いてくれますが、間が開いて勘の鈍った時は大した工程でもないことに何時間もかかります。写真も気の乗らない時は何十枚撮っても、あとから見てチグハグさばかりが気になります。要は、その「気の乗らない時間」を「ウォーミングアップ」と割り切って乗り越えられるかどうか、なのでしょうね。

さて、眼前の『LB4』ですが、題材は「昭和30年代の蒸機地方私鉄」や「空想の米国鉄道情景」‥いまどき、どこの模型誌に持ち込んでも相手にされない内容ばかりです。

今の鉄道模型出版は「新幹線」「最新特急」「大都市の通勤電車」しか取り上げません。業者が作るレイアウトもそうですね。「一般受けすること」が必須になっていて、それには「日常、多くの人が目にできるものが、一番確実だ」という短絡的発想です。

最近も専門業者が作ったNゲージのレイアウトを見ましたが、大概は京葉線の新木場あたりか、東海道新幹線が多摩川を渡る前後のような高架風景、それに町田とか横須賀中央とか保土ヶ谷あたりのベッドタウン駅、それに小田原あたりの私鉄、JR、新幹線複合駅がモデルですね。その情景のどこに魅力があるのか、という主張が丸で抜けています。

何のことはない、「どんな風景を造っていいか分からないから、とにかく手近な風景を写しておけば、実物らしいので文句は来ないだろう」という、実に貧相な頭脳が手に取るように分かります。

確かにそつなく、こぎれいには出来ているが、「ここに果たしてロマンティシズムはあるのだろうか?」と考えてみると、何時間も眺めていて飽きない、というものは何もありません。所詮は車輌が駆け抜けるだけの運転盤に過ぎません。

『とれいん』に居た頃にも「通勤電車に揺られて帰って、そこでまた通勤風景を思い出す模型を眺めて、果たして楽しいのか?」と、大胆にも書いたことがありましたが、「身近にある」ことって、そんなに魅力的なのでしょうか?

鉄道模型にとって「日常性」はそんなに大事なのか?むしろ本来求めていたものは「非日常性」ではなかったのか?と書きました。しかしRMMなんていう雑誌は、そういうメンタルな部分がまるで無く、あのお手軽主義が鉄道模型業界挙げての後押しで、「日本の鉄道模型誌の理想像、お手本」になってしまいましたから、鉄道模型全体に知的後退が起こったのも無理はありません。

考えてみれば、業界にとっては模型ファンを幼稚にしておくほうが、物は売りつけやすかったのですね。模型ショウのたびに大量に並ぶ、あの、いわゆる「グッズ」の山を見ていて、やっと、そこに気付きました。

「鉄道模型は大人のホビー」などと謳っている業者自体が、実は、そんなことは丸で信じていない、ということです。

小学生のころから臼井茂信氏や山崎喜陽氏の格調高い文章に憧れ、鉄道趣味を「知的世界」と捉えていた私は『とれいん』に全く逆の理想を掲げていたわけです。

このところ毎月のように「鉄道模型の入門書」が発売されています。それに作例を出しているのも大概は同じようなプロ、セミプロですが、ただ「小さいスペースの中で列車が回る」というだけで、何のテーマ性も情感もありません。

あれで、たとえ入門した人があっても、1回作ってみれば、「まあ、こんなものか!」で終わってしまって、そういう人は、長続きしないどころか、却って鉄道模型には二度と帰ってこないのではないか、と思います。

JAMの理事にも元アマチュアのイベント業者さんで「親近感至上主義」の人が居て、今年も既に2回、公の席で「松本さんのように凝った作品は‥」と批判されています。ようするに「松本の作品のようなものは観客動員の邪魔だ」という趣旨のようです。

しかし、私はこの理事さんにも多くの業界人にも一度じっくり訊いてみたいですね。「そんなに身近に感じられるものが大衆に価値あるものなら、何でディズニーランドは、あれほど人気が絶えないのか?」と‥

あのTDLだけをとっても、あのパークの中は「非日常性」ばかりです。テレビのホームドラマに必須といわれる一般家庭の食事風景も無ければ通勤、通学風景、教室風景もありません。「サザエさん」とは正反対の世界しかありません。

まさにイリュージョンの世界、幻想の世界です。ゲートを潜った途端、観客はその世界に没入できるのです。昨今の鉄道模型業界が提供する世界はどうでしょう?

「ゲートを潜っても」実在の日常世界が続いているだけ、ではありませんか?寝台特急が激減してから、なおさら、そうなりましたね。

「米山鉄道」は、祖母も父も東京の下町生まれ、母も東京生まれ、で、いわゆる「親のいなか」というものが無く、越後から養子に来た祖父とその郷里から縁故で採用された店員さんたちの話に想像を膨らましていた「田舎」を舞台にした幻想の鉄道です。

つまり自分にとっては「懐かしい世界」ではなく、完全に「ワンダーランド」「ネヴァーランド」、非日常の世界です。結局、私にとっては、日本型であれ外国型であれ、レイアウトは「非日常のネヴァーネヴァーランド」でなければ、造る意味がないのです。

最近では「レイアウト」より「鉄道模型ジオラマ」という言い方が増えましたね。

私はどうもレイアウトを、あの「ジオラマ」という言葉で表現されるのが好きではありません。「ジオラマ」というのは「風景見本」という意味の、極めて唯物的な見方であって、そこには造り手の感情、詩想というものへの価値評価は全くありません。造り手が誰であっても、実景らしく模写されていれば、それで十分「ジオラマ」なのです。

そういう意味では業者が作る風景付き鉄道模型運転施設はまさに「ジオラマ」なのでしょう。しかし、アマチュアがそれを手本にすることにどれほどの意味があるのか?

それとは違って、造り手が思いを凝縮するのが「レイアウト」。つまり、テクニック以前に情念の世界が先行するのがレイアウト。

「レイアウト」は文学だ、と思います。

「凝ったもの」か「大衆受け」か、という基準でしか模型を見ない某JAM理事には絶対に解からないでしょうが‥

ここまで書いて、あのスケールの小さい日常性しか描いていない「サザエさん」は日本の子供にとって、実はイメージの貧困をもたらす戦後最悪の有害図書ではなかったか、と疑うようになりました。あそこからは「飼い易い子」は育っても「夢のある子」は育ちません。いま業界が提示している鉄道模型の世界って、まさに「サザエさん」がぴったり重なる世界なのではないでしょうか?

あっさり書こうと思っていたのに、また、長くなりました。