アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.42
米国の鉄道模型雑誌の代表といえば、いまもって「モデル・レールローダー」誌、通称MRでしょうが、ここ数年、めっきり魅力が無くなりました。それは若い世代に鉄道模型趣味人口が減ったのを心配して「ビギナー向けのハウ・トゥー記事」一辺倒にした編集にあると思います。「こうすれば簡単確実にあなたにも作れます」というものばかりになって、何か読み手が思索や想像にふける余地のある記事、というのがほとんど無くなってしまいました。そして、広告を含めてDCCのニュース。あまりにも趣味が機能一偏で語られるようになってしまった印象を受けます。
しかし、改めて観察してみると、米国文化というのはすなわち「How to文化」か、と思われるほど、米国人は「ハウ・トゥー」が好きですね。そもそも「How to本」の古今東西のベスト・セラーはキリスト教の『聖書』です。私は中学と高校で6年間授業があって、不信仰のくせに成績はずっとAでしたが、客観的に見れば、あの本は「こうすればあなたも間違いなく天国へ行けます」という「How to本」です。「それは違うだろう」という疑いを容認しない本ですから「How to」です。‥そして私のたった一人ですが英国人の友人にいわせますと「アメリカ人のあのキリスト教原理主義がわれわれイギリス人には耐えられない」そうですが、ピルグリム・ファーザーという移民の最初の一団は「信仰の自由を求めて」というより英国社会のファジーを嫌い「厳格な信仰を守りたくて」英国を脱出したのだという見方はたしかに成り立ちます。ジェームズ・ボンドはCIAでは務まらないでしょう。
いい悪いではなく、そういうメンタリティーで、しかも成功者信仰もまた盛んな国ですから「最短距離での最大の成功」というのが一番刺激的で人を惹きつけやすいのでしょう。『聖書』に、もしキャッチコピーをつけるとすれば「天国への最短距離はこの一冊に」。
しかし、「最短の時間、最小の努力」で得たものが果たして「最大の成功」なのでしょうか?つまり楽しいのでしょうか?
私とて、車輛に完成品を使い、ストラクチャーにキットを最大限利用していますから、決して偉そうにはいえないのですが、しかし、使い方ぐらいはせめて自分でゆっくり構想しながら趣味を楽しみたいと思っています。パズルのように「すべてがオールインワン」でお膳立てされていたら、レイアウトなんて、ただの塗り絵です。
ここ3,4年、日本でもたくさんの鉄道模型のHow to本が出ていますし、『RMM』も『とれいん』も、いや老舗の『TMS』ですら、How to記事のオンパレードです。
また実際、模型メーカー、小売店、そして読者からの要望にさえ「ビギナー向けのHow to記事を」というのは多いのも事実です。それが模型界の現状の問題のすべてを解決するのに、雑誌社の努力が足りない、という業界人は多いです。本当は自分たちが魅力ある商品展開に努力しないから模型界が変わらなのですが‥まあ、広告主対策もあり、また繰り返し言われると、編集者もその気になります。一種のマインド・コントロールですね。
従って、思索的に、というか、メンタルな部分で模型を楽しむことに触れる記事や企画は限りなく少なくなります。How to本では皆無でしょう。また、そういう本の筆者、編集者は「ビギナーには考える事は無理だ」と勝手に決め付けている節があります。だから、「まず、あなたにはこのくらいが適当です」という安直な押し付けができるわけです。
「プレス・アイゼンバーン」でかつて浪人中のアルバイトをしていて、心気一転米国の有名な大学へ留学した若者がありました。何年かのち、その卒業の年に現地で会いまして、いま卒論をまとめている、という話になり、テーマを訊ねましたら「各界で成功した人がそれぞれ成功した理由を詳細に調べて体系的にまとめると、その同じ分野でどうしたら成功するかのエッセンスが見えるはずで、人々がそれを実践すれば同じ成功が容易に得られる、という理論を立てようとしている」といいます。
「たとえば松本さんの鉄道写真を分析して、その優れているところをまとめると松本さんと同じような写真が誰にも撮れるようになるんです」といいますので、「馬鹿言え、俺の写真が1枚ものになる陰で、どれほどの失敗を重ねているか、取り損ねているか、は外からは調べられないだろう。その数知れない失敗の反省の上に、ああやったらこうなる、がプラスマイナス組み立てられていくんだから、成功した結果から抽出したデーターだけじゃその人間と同じ成功は絶対にできない。手堅い成功のための経験則は失敗の回数に比例して豊富になるんだ」と指摘しました。そのときの彼のあっけに取られた顔。
このとき、私は初めて「留学した彼がこう信じるのは、米国とは要するにHow to文化の国だな」と感づいたのですが、さすがにこの彼の研究テーマはあまりにも分析が単純過ぎたのか、なかなか指導教授のOKをもらえなかったようです。
しかし、いきなりスパッと凄いモデルが造れてしまう人がいます。しかし(半分負け惜しみですが)こういう天才には、この趣味が長続きしている人が存外少ないですね。
それはきっと御自分でも「ああ、鉄道模型の自作って、こんなもんか。これならば自分がやる気になればいつでも同じものはできる」と考えるからではないでしょうか?事実、昔、私などはどう逆立ちしてもできないような蒸機のモデルを造る方が、御自分の作品をすぐ売ってしまうので、「愛着って涌かないのですか?」と率直に聞いたことがありました。
そうしたら迷いも無く「ああ、欲しくなれば、またすぐ作れますから」という返事が返ってきました。
糸鋸、半田ごてを握ったら正確無比、TMSの作品コンテストで最優秀賞を連続獲得したのに、いきなりパタッと鉄道模型から卒業してAV(オーディオ・ヴィジュアルの方です。アダルトではなく)の世界に行ってしまった人も知っています。
こういう方々にしてみると「自作の機関車なんて、造れるのが当たり前で、何をそんなに騒いでんの?」‥まあ、公園の散歩程度のことなんでしょうね。うらやましい限りです。
そこへいくと、不器用の極みのような私などは、「あっ、また、はみ出した!」「ああ、曲がった!」「どうして、お前はまっすぐ着いてくれないの!」「どうせ、歪もうと思ってるんでしょ!ほーら歪んだ!」、と涙のにじむような悔しさの連続の末に何とかカッコにまとまるのが常ですから、製作といえばいつでも酸素の薄い山頂にやっとたどり着いたような感激というか、自分を抱きしめてやりたくなるような愛着を味わいます。
こうした、「きっと、いつかは、今より佳いものに仕上がる」という期待、というか、他人から見れば妄想、妄念、があるので、そのために成仏できないで、「鉄道模型界」という魔道にいつまでも迷っているのでしょう。南無。
すごろくでいえば「一回戻り」「振出へ」の連続。思い返せば、模型だけではなく私の人生すべてが、他所様の二倍も三倍も手間が掛かって、それでやっと、かろうじて皆さんの後塵が彼方に見える、という繰り返しでしたから、「自分には一度で上手くいくことなどありえない」という諦観が基礎信念になってしまっています。
でも、前にも書きましたが、よくしたもので、「不器用の幸せ」というのもちゃんとあります。たまに、そこそこ上手くできたのが無常に嬉しい。これは器用な人には味わえないものでしょう。私が「やっと出来た!」と興奮するようなことでも器用な人から見れば「できて当たり前じゃないか?」「それが、何か?」というところでしょう。ですから、天才って興奮しませんね。
でもやっぱりうらやましい。『とれいん』という雑誌をやったおかげで何人もそういう方に会いましたが、天才というのは訓練や修練でできるものではなく、最初から「天才」なんですね。あれは腰の強さとか、骨格の問題も関係するようです。反射神経はもちろん関係しています。だから「持って生まれた‥」なんでしょう。現にうちの次男の器用さを見ているとそう思います。誰が教えたわけでもないのに、初めて見る工具でもさっと使いこなします。「練習」ということがないのです。「どうやったら、そう曲がって切れるわけ?」などと憎らしい事をしゃあしゃあと言ってのけます。
車輛工作は厳しい。0.2mmずれたら工作しない人の目にも明らかに分かりますから‥ですから、あれを制するというのは、天才的器用の世界、と私は思うのです。
そこへいくと、レイアウトは好いです。不器用にもできます。0.1mm単位を争わなくてもいいし、正確無比に造ったら却って味気ないか気持ち悪いだけですし(不器用に“正確無比”ができるわけもないが)‥しつこくいじりまわしているうちに何とかなりますから‥
もっとも聖書が「求めよ、さらば与えられん」といえば2000年間のベストセラーになれるのに、「レイアウトはどう作るのでしょう?」と訊かれて、私が「思いつめて思い詰めて、しつこくいじりまわしていれば、いつかできます」と答えれば質問者を白けさせるのが必定なのが「宣伝力の差」ですね。同じことなのに‥
でも、レイアウト製作の基礎テクニックなんて、経験ある皆さんもお気づきでしょうが、そう大したものではありません。それをどこまで丁寧にやるか、の問題でしょう。「どう造るか」は、結局は「どういう眺めを造りたいか?」に尽きると思います。
私の場合、それは実物の鉄道写真から来る場合も多いが、鉄道が全く出てこない映画や小説、演芸、あるいは歴史や民俗学に関する随筆や辞典などから突然発想につながることも多いです。映画のワンシーンのたった一言のセリフが想像を掻き立ててくれることもあります。
特に落語は役に立ちます。あの、言葉の中に浮かび上がる人間の動作は既成の人形を使ってストーリーを組み立てるのにどれほど参考になるか?色彩もそうです。短いセリフの中での無駄を削ぎ落とした表現はカラー写真以上に鮮烈な印象を与えてくれます。
レイアウト製作も、実景のなかにある沢山のものを削ぎ落として削ぎ落として、最少の、しかし象徴的な組み立てに絞り込む作業ですから、落語に通ずるものがあります。
実は今夜は新橋に落語を聴きにいきます。桂米二師匠という上方落語のベテランで、本人が電車好き、「京都トンネルクラブ」の名誉会員(?)でもありますが、年に二、三回東京でも公演します。今日の出し物は「まめだ」という、落ち葉にちなんだ噺とのこと。一足早く、落ち葉の色に浸ってきます。
今日はお見せするような仕事もないので、以前撮影したD&GRNの列車風景をご覧ください。本線は複線、というより単線エンドレスをぎゅっと握り締めたようなプランですので、1エンドレスに複数の列車を走らせていると、偶然こういう瞬間になることが、比較的頻繁に起こります。そういう時は自分での光景の荘厳さに圧倒されます。