アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.66
我が家の猫額ほどの庭にも新芽が動き始めている一方、この週の後半は事務所の帰路、2回も降りしきる雪を突いて自転車を転がしてくる破目にあったり、で、春がどこまで来ているのか見当がつけにくい、この冬ですね。
寒さで体が硬いと、やる工作もどうしても小幅になりがちで、食卓の上でチマチマやれることばかりこなしています。
この1週間の前半は、昨年の暮から米国マンチュア社の60数年前の4-4-0の修復をポツポツやってきたのが、ようやく一応の完了、後半は夏のコンヴェンション出展用の港湾セクションに使うイワシ運搬船のレジン製キットの組立てを主に過ごしました。
先にも書きましたように、来年1月はジョン・アレン没後40周年となります。それであらためて彼の事績を振り返るうちに、彼が初代G&D鉄道レイアウト完成に至るまでの頃(1946-1948年)の米国のHO事情にも興味が広がりました。「一体どのくらいの製品が当時すでにあったのだろう?」と‥
アレンが最初に鉄道模型に手を触れたのは大戦中の1944年で、動力車の購入1946年。ヴァーニー社がボルティモア・アンド・オハイオ(B&O)鉄道のC-16クラスというBサドル・タンク機関車をHO化したダイキャスト製品が最初でした。のちに彼のG&D鉄道のNo.9となるモデルです。
私の手元には、NMRAコンヴェンションのサイレント・オークションとニュー・ヨークに住む妹を訪ねた際に郊外の古い町の骨董屋で入手した1930,40年代のモデル・レールローダー(MR)誌が10数冊あり、これが、私がHOスケールやナロー・ゲージ・モデルの発祥を知る、よき手がかりになっているのですが、その広告で辿ると、この製品は1941(昭和16)年に広告が出ている一方、1960年代まで売られていたのですから、本当に米国のHO発展を支えた国民的モデルであったことが分かります。
そして、翌1947(昭和22)年に増備した2台目の機関車が、今回私は整備を終えたマンチュア(Mantua)社の4-4-0、“ベル・オブ・ザ・エイティーズ”(“1880年代美人”)でした。G&D鉄道ではのちにNo.8,“サージャント・エニス”となるモデルです。
この製品もMR誌の広告では1941年6月号にすでに載っていますから、大変に古くからのものです。昭和16年当時にキットが20ドルとありますが、当時2,000ドルが標準的な中流家庭の年収だったそうですから、その100分の一。米国といえども当時のHOはそう安いものではなかったのが分かります。
戦前の広告にある写真では第2動輪のセンターがキャブ前妻板より前にあって、二つの動輪間がほとんど接するばかりなっていますが、これでは蛇行が出たのか、戦後の生産では第2動輪の中心はキャブ下に後退して、均整の取れた姿になっています。
製品を分解してみますと、構成がなかなか面白い。広告でも“オール・メタル”と謳っていますが、ダイキャストと真鍮の混合です。すなわち、ランボードから下とテンダーのシェル、それに動輪の輪芯とテンダー台車がダイキャスト、ボイラーとキャブ、動輪のタイヤとテンダー車輪は真鍮で、煙突とドームも真鍮の挽き物、そしてキャブの屋根が再びダイキャストです。
どこが面白いかといいますと、真鍮を使っているのに、真鍮帯材のボイラー・バンドをボイラー・ジャケットの真下で留めているところとモーターの結線以外にはハンダ付けは一切使われていないのです。左右に分けて0.3t程度の真鍮薄板をコの字型にプレス加工したキャブとダイキャストのランボードや屋根との固定、そのアセンブリーとボイラーとの連結はすべて小さなセルフタッピング・スクリューによっています。つまりビスを外していくだけで限りなくバラバラになってしまう構造なのです。
これは、一旦組んで試運転ののちでも簡単に分解できるので、塗り分けには非常に好都合です。このあたり、なんでもがむしゃらにハンダや瞬間接着剤で固定させて、塗装のことは全く考慮しない日本の模型設計者と発想が全く違います。日本の設計者の塗装への配慮の無さは結局、塗装の面倒さに跳ね返って、製品では厚塗りやはみ出し、価格の上昇を招いています。「熟練者の技量に頼る設計」と「初心者にも確実にこなせる設計」。日米の設計思想の違いは戦闘機から鉄道模型まで共通しているのを痛感させられます。
1950年代に入って、日本製の、ハンダづけで組んだブラス・モデルが輸入される以前の米国国産の金属製モデルというのは、フル・ダイキャスト以外はこういう組立てだったようです。
ちなみにマンチュア社は正式名称を「マンチュア・メタル・プロダクツ・カンパニー」といい、“HOのパイオニアでありリーダー”を謳っています。「マンチュア・タイプ」と呼ばれた、NMRAタイプ以前に米国で最も普及した自動カプラーの開発者でもありました。
このマンチュア・タイプ・カプラーですが、数輌分が揃ったところで連結して運転してみましたが、急カーヴへの対応とカーヴ上での連結に関しては、日本で標準となったベーカー式より優れているようで、米国ではベーカーが全くといってよいほど普及しなかったわけが理解できました。(ジョン・アレンが米国の有名モデラーでほとんど唯一のベーカー愛用者でした)
このモデルのあと、同じマンチュアが発売した「ジェネラル」を含め、今日のプラスティック・ボディー製品まで米国型古典タイプ4-4-0のほとんどが、テンダーに搭載したモーターで機関車側のウオーム・ギヤーを駆動する方式を採っているのに対して、この戦前発売の「ベル・オブ・ザ・エイティーズ」は横型オープン・コア式モーター(いわゆる“棒型モーター”を機関車側に搭載して第1動輪をウオーム・ギヤーで駆動しています。そして、ウエイトのバランスがいいのか、各部に充分に注油をしてやりましたら、非常によく走り、かつ4-4-0にしては結構牽きます。フレームがダイキャストなのとボイラーの太さによる充分なウエイト量で、動輪上にしっかり重量が掛かっているからでしょう。
無論、このモデルが「1880年代美人」のタイトルが示すように、米国の4-4-0としてはやや後期となるころのボイラー・サイズで作ったフリー・デザインであるところも大きいですが、たくましい走り振りには、「愛着の涌く模型の第一はよく走ること」というのを実感させてくれます。
大動輪の4-4-0というのは、眺めて飽きないが、走るとなおさら綺麗です。蒸気機関車の美しさの原点を見る思いがして、「鉄馬」の愛称はぴったり、と納得します。また一方、60年以上前の模型が快調に走る、というのも鉄道模型の価値が裏付けられたようで、無性に嬉しいものです。(このあたり、昨今の中国製模型は将来どうなのでしょう?)
今日の写真はとりあえず復元と化粧を終えた「1880年代美人」です。牽いている客車もこれまたマンチュアの古い製品で、同じMR誌1941(昭和16)年6月号にこの4-4-0と共に写真入り広告が出ています。これも全金属製で、妻板を二分割し、側板とともにコの字状にプレスしたものを左右合わせて箱状にし、その中にトラス棒つきの床板を落とし込んで、ダイキャストのデッキ板をキーにしてネジで組み立てる、という構造です。米国では鉄道名を書くことの多い幕板は、屋根の側についていて、塗り分けやすくなっています。
台車もダイキャスト製ですが、転がりは見た目よりも良好です。車種は荷物車、座席荷物合造車、座席車、「プルマン・カー」と称する、窓割の若干異なる座席車、の4種を確認しています。荷物ドアーはスライドで開閉するようになっています。
こうしてみると、米国のHO製品は戦前すでにかなりの表現水準に達していたことが分かります。これに合わせるならレイアウト表現も最初から精緻なものを目指すことになって当然だったことでしょう。そこにG&D鉄道誕生の背景もあったと思われます。
ジョン・アレンのG&D鉄道No.8は写真集『MODEL RAIROADING with JOHN ALLEN』の中に6回登場していて、最初はキット素組みの未塗装状態、つぎにダイヤモンド煙突を製品よりも大振りのものに交換してキャブ屋根にも天窓を設け、紫に塗られた時代、そして煙突をキャップ付きのストレート・タイプに交換して炭庫を増量した姿、と変遷しているのが分かります。そして製品の小振りなダイヤモンド煙突はラウンドハウス社の0-6-0キットを使ったNo.12か、同じキットを2-6-0にコンヴァートしたNo.25に利用されたと見られます。
アレンの模型術では、テンダーの相互交換は前述写真集にも解説されていますが、こうしたパーツの繰り回しも楽しんでいたのが分かりました。
実は今回のマンチュア製4-4-0の修復は破損していた2輌を別個に入手して、二つそれぞれからより良好な部分を拾って、まず製品そのままに近い姿1台を完成させましたが、当然あと1台分のパーツがほぼ残っています。これをベースにG&D鉄道No.8のレプリカを造れないか、いまキャップ付きストレート煙突の候補(たぶん当時のケムトロン製)を物色しているところです。