2013.9.14

アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.73

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それは昭和25年の後半か、昭和26年の春のある薄曇の午後でした。外出していた父が何やら大きなベニヤの木箱を抱えて帰ってきました。日本橋通三丁目3番地、高島屋デパートから2ブロック銀座寄りの角にあった店の2階、住居部分の6畳間でそれは開かれました。中から出てきたのは見たことも無い小さな、しかし玩具とは思えない精巧な汽車と木に枕木を彫刻した上に固定された細い線路でした。

列車は小さな蒸気機関車と2輌の貨車と、屋根の上に小屋の飛び出した不思議な車輛の4台。不思議なかたちの車輛は真っ赤に塗られて大変に刺激的でした。

父がさっそく線路を小判型につなげてくれて、トランスというもので運転を始めると、列車は速くも遅くも変幻自在に速度を変え、一旦連結器を離してまたぶつけると、それで連結してしまう、という魔法も持っていました。

それは幼い脳にはあまりにも強烈すぎる刺激でした。この瞬間、私の人生も、松本家の半世紀後の没落も運命付けられてしまったのです。そして、これが私の63年の人生の最も古い記憶でもあります。つまり、この時の小さな汽車との出合いが私にとっては自己の原点なのです。自分のすべてがここから始まった、と確実にいえるでしょう。

ただし、この小さな列車は私があまりに小さかったために大人の都合で失われてしまいました。

私の方も、成長に従って、より多くの汽車に興味が拡がり、日本橋の家の2階座敷に寝転がって空想を広げていた日本全国の隅々からヨーロッパ、アメリカまで汽車を訪ね、あろうことか自分の書籍、雑誌を持ち、夢物語であった内外の著名な趣味人との交流も実現し、小さな4輛編成から始まったHOは一周160mのエンドレスに60-70輛編成をそれぞれ2,3台の超大型機関車が牽き、また押す複数列車がすれ違いを演じるまでに成長しました。さらには自分のプロデュースした模型製品も持ち、小型とはいえ実物の機関車の所有者にまでなって‥と、どれも単独では頂点を極める事ができたものはありませんが、およそ鉄道趣味の種目(?)のなかで経験できたものの多さでは古今東西にも他に例を見ない汽車道楽三昧の60年を過ごしたわけです。(やれなかったのは実物の設計製作、運用、運転、ライヴの自作ぐらい?)

億万長者の鉄道マニア、という人があって千金を投じても、今となっては買えない人生を東京でも二流の呉服屋の小せがれが偶然から偶然で実現したわけで、まさにめぐり合わせの不思議、としかいいようがありません。そもそも、呉服屋のせがれが道楽者、というのは江戸時代から決まった相場ですが、われながら、そちらの方でもこれだけ型破りな例はちょっと聴きません。若旦那が身上をつぶしたといえば、大概は女と酒ですが、「汽車道楽」というのは、ね。近松門左衛門でも書きように困るでしょう。ちなみに「若旦那」が打つ=賭博で身上をつぶした、というのはまずありません。もともと遣う一方で、増やそうという気がありませんから‥

ある敬愛する趣味界の先輩から「おまえはどうして趣味界でそう評判が悪いの?」と訊かれたことがあります。何でも東京には月に一度、私の悪口を肴に飲む会があるのだそうで、某超一流私大鉄道研究会のOBさん方を中心に集まる、という‥そりゃそうでしょう、三流私大中退がこれだけ趣味界でいろいろな夢が実現できれば、一流ブランドの反感買って当たり前です。しかし、この趣味界の歴史の中でそういう、個人のこきおろしの会ができた、というのも私だけ。これも勲章でしょうね。

まあ、いろいろありましたし、いまでも、いろいろありますが、帳尻としてはおかげさまで大変結構な人生、期待を数倍する人生だったのではないでしょうか?あの最初の4輛セットがここまでに成長したのですから‥

ところが人間は面白いもので、ここまでアメリカ型のありとあらゆる車輛を集めてみると、頭をもたげてきた願いは、「もう一度、あのスターターセットを走らせてみたい」でした。

天賞堂の初代Cタンクに貨車2種、それにセンター・キューポラの赤いカブース。いずれも、先日タンク車のキットのことを書いたニューワンモデルが製造して天賞堂に供給していたものです。

しかし、前にも書きましたが、これはなかなか簡単ではありませんでした。肝心のCタンクがすれ違い続きで入手できず、この夢もいつしか15年越しになってしまいました。

そして、今日、ついにそのニューワン製天賞堂初代Cタンクが入手できたのです。私の中学時代からのアメリカ型鉄道模型の仲間であり、当時から(実は私との出会い以前の小学生時代から)今日まで一度もぶれずにニュー・ヨーク・セントラル鉄道一筋のモデラーである奥野仁巳氏の協力のおかげです。日程の都合で入札締切日に応札できない私に代わって海外オークションで落札してくれたのです。

奥野氏も小学生時代に天賞堂の鉄道模型売り場の多くがニューワン製品で占められていた次代を見ていて、中学で私と出会ってから二人でその絶版をしばしば嘆いていた間柄ですから、私のニューワン製品への愛着をよく理解してくれます。

今日は完成間近い氏のNYCレイアウトの建設を手伝いにいきがてら、念願のCタンクを受け取ってきました。塗装済みの美品で、しかも元箱つき。やはりPFM以前に天賞堂製品の米国への輸入を取り扱っていた「INTERNATIONAL」の化粧箱で品名は「C Tank Loco」のゴム印が押してありました。

夕食ももどかしく、注油とカプラー(当時のベーカー・タイプです)取り付け。あの60年前の衝撃の日を再現するために、我が家で唯一和室として残っている、家内の画室を借りて、BACHMANのプラ製道床つき組線路で450Rの小判型エンドレスを敷きました。

往時の4輛のうち、中間の貨車2台の車種は正確には覚えていないのですが、ワーク・カーが早い段階であったことは覚えているのと、父の好みでは、何か積荷を変えられる貨車が重視されていたことからフラット・カーではなかったかと想像します。

この2台はずいぶん以前に、大阪マッハ模型店の委託品コーナーで見つけた数台のニューワン貨車の一部です。

カブースは印象が鮮烈でしたので、この品に間違いありません。ニューワンの天賞堂向けカブースは3種類ありまして、オフセット・キューポラが2種、センター・キューポラが1種でした。オフセットの方はユニオン・パシフィックの木造車とサンタ・フェの鋼製車がプロトタイプでそれは少年時代から知っていましたが、肝心の我が家最初のカブース、センター・キューポラのプロトタイプは長い間分かりませんでした。それが、「とれいん」を初めてかなり経ってから古い米国の模型誌に出ていた図面から、セントラル・オブ・ニュー・ジャージー(CNJ)鉄道の木造車だと分かったのです。しかし、こういう場面には、余り特定の鉄道のくせが出ていないカブースが似合います。

これは愛着の深いモデルなので、国内でキットを組み立てたと思しき中古を入手していましたが、最近新たにもう1台、米国の地方模型店で60年前に輸出された完成ボディーが新品のまま売れ残っていた、という奇跡のようなものを見つけ入手したのを降ろしました。

機関車は最初から練れていまして走行は好調でしたが、各所に油が回るにつれ、さらに滑らかに‥スローもかなりのところまで効き、往年の縦型モーターの実力を再確認しました。

改めて眺めると、終戦後まもなくの設計らしく、プロトタイプはアメリカ型というより、コッペルの中型タンクか、それをベースにした立山重工あたりの産業用にリベットを加えたものでしょう。ホイールベースを小さくまとめたところがまさにそのものです。

そして、実はこのCタンク、本当はCタンクではありません。第二動輪と見せているのは実際は遊輪で、軸配置表記で書けば、A1A、もしくは0-2-2-2-0、なのです。しかし、ダイキャスト製の上回りでウエイトはバッチリ効いているため牽引力はかなりのものです。なまじ3軸すべてにロッドをかけるより中央は遊輪にした方が確実にスムーズに走る、と判断したのでしょう。

畳に寝転がって、頭をつけ、ジョイントを渡って行く音に聞き惚れます。あの60年前の幸せな午後が戻ってきました。仏壇から親爺も眺めていることでしょう。「すべてがここから始まったんだなあ!」という感慨に浸りながら何周も何周も眺め続けました。それを見おろしていた家内が突然頬を突付いて「幸せそうだね」と笑いました。

「ネエ、頼みがあるんだけど‥」
「何?」
「先々、病院で手当てしてももう無駄、ということになったら、最期まで入院させとかないで、連れて帰ってここに寝かせて‥それで、この汽車、枕元に走らせて欲しい。一時間でもこれ眺めて音聴きながら息を引き取りたい」
「いいよ、そう上手くいくといいけどね」

老夫婦の会話です。