2011.4.24

モデルライフ Vol.4

アメリカ型鉄道模型20110424

1月最後の土曜日、「さかつうギャラリー」の坂本さんがお二人のお客様とD&GRNをお訪ねくださいました。

坂本さんとはほとんど毎月会っているのに、場所といえば大概は氏のお店か、どこか展示会場で、当レイアウトに見えたのは実に20年ぶり以上ではないでしょうか?時って、あっという間に経つものですね。

その坂本さんから久しぶりの感想として、「松本さんはレイアウトを、風景として、より、場面として造っているんだね」という意味のことをいわれました。

造形というのは他の人に見てもらうと、自分では特段意識していないことが見事に解析される場合があります。なるほど、そういわれると、そうかもしれません。普段でも長年のくせで、目に映るものを、風景として眺める、というより、シャッターを切るように、構図で捉えてしまうくせは、確かにあります。

自分にとって必要なのは「風景」ではなく「光景」なのでしょう。

それはやはり、小さいときに親しんだディズニー映画とか西部劇のカメラ・ワークの影響が大きいでしょうし、その後も内外の鉄道写真の秀作や、自分でも訪ね歩いた鉄道の現場で目に焼きついたシーンというものも映像記憶としてのデーターになっています。

自分がそこに立ちたい場面、眼前に開けて欲しい光景を求めている―今回の砂利会社専用線の小さな機関庫はまさにそのとおりで、構内に小物を配置しながら、それを除けながらシェイの撮影に熱中し、歩きまわる自分の動線を想像していました。(ちなみに、これなら1/87の自分が入り込んで、ちゃんと機関車全体が50mmレンズに収まる、というスペースやポイントは空けてあります)

「夕方近く、一日の仕事を終えたシェイが薄煙りをたなびかせながら、隙間だらけの木造庫の前に佇んでいる。撮影許可を求めて、脇の事務所に入ると‥」あるいは「太陽が照りつける昼休み時、シェイNo.1は蔵の前に休み、乗務員は詰め所の中で弁当を広げ‥」というような状況解説を思い浮かべながら、作り、眺めると興は尽きません。

私にはそれが最初から当たり前だから比較も自分本位ですが、漠然と「風景を造ろう」と考えるより「こういう場面を造ろう」と映画的に考える方が、具体的なイメージは涌きやすく、その方が製作も速く進むのではないでしょうか?

私の場合、連続した一つの風景を狙う、というより「場面を次々に作っているうちに、いつかレイアウトも埋まるのではないか」という目算も無意識のうちに働いてきたのかもしれません。だから作業現場もレイアウトのあちこち、計画性なく移動するのでしょう?

「それでちゃんと風景がつながるの?」と心配されるかもしれませんが、これが面白いもので、旅したり、写真集を眺めたりしていくと、ちょうどそういうお誂えの景色というのが出てきて、それらしくまとまるのです。この偶然がまた面白い。